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大正開拓(提供:斜里町立知床博物館)1914

知床の黎明期

~1914年に始まった知床の開拓時代~

 知床開拓の歴史のはじまりは今からおよそ一世紀前にさかのぼります。1914~1915年に道内から7戸が幌別川の東側の原野に入植したのが岩尾別地区開拓の始まりです。その後、国の開拓計画によって戦前・戦後を通して3度にわたる開墾が試みられ、戦前のピーク時には福島県や宮城県などからの入植者で岩尾別地区に60戸ほどの集落ができました。

 入植時は開墾作業の重労働に加え、道路、住宅、電気、飲料水など生活基盤は未整備なため苦労の連続で、さらに、岩尾別地区の台地上は水利が悪く、転石に覆われており、入植地としては恵まれない条件だったのです。

 しかし、入植者はこのような厳しい土地条件や地理的状況の中にあってもさまざまな工夫や努力によって農業を営んでいました。

 その後、徐々に生活基盤の整備も進み改善されていきましたが、開墾をすすめる中で、地中の転石が多いために畑として使うことが出来る面積が少ないことがわかり、開拓計画も全般的に見直されることとなったのです。入植戸数も大幅に縮小し、営農形態も肉牛の導入による有畜農業への切り替えや澱粉工場の設置など様々な対策がとられましたが、地理的条件を打破する決定打にはなりませんでした。

 1960年代に入ると、知床は原生的な自然の価値が評価され、全国で22番目の国立公園に指定されました。その結果、秘境知床として一躍全国の注目を集めることとなり、知床をめぐる経済、社会環境も大きく変化し、これらと相まって入植者の離農が始まり、次々とこの地を離れることとなりました。

 岩尾別地区の開拓は1973年まで営農していた入植者を最後にその歴史に幕を閉じ、開拓した土地は開拓跡地として残ることとなりました。

岩尾別澱粉工場付近(提供:斜里町立知床博物館)1965

押し寄せる開発の波

~不動産業者による離農跡地の買い取り~

 この頃、日本は「日本列島改造論」による土地投機ブームの中にありました。知床半島の国立公園内に残っていた開拓跡地にも道内外の不動産業者からの買い取りの手が伸び、その面積はおよそ100haにも上りました。開拓跡地は国立公園内とはいえ制度上の保護規制が緩い地域でもあったため、乱開発の危機が迫っていたのです。

 町は、開拓跡地となった土地を国や北海道に買い上げてもらうよう要請をしましたが、当時の公園区域指定状況(第3種特別地域)では制度上の買い上げ対象にはならず、実現には至りませんでした。

 その一方で、不動産業者から土地を守り抜いた開拓離農者からは町議会に対して一括で土地を買い上げするよう請願書が提出されていました。

 1965年以降、高度経済成長期の中であるとはいえ地方自治体の財政構造では自然保護のための土地保全に支出するには難しい状況にあり、国や北海道の買い上げが不可能な状況から、開拓跡地の保全は町の独自事業としてすすめるほかに方法はなかったのです。

1977

しれとこ100平方メートル運動がスタート

~斜里町が全国に寄付を募り、土地の買い取りへ~

土地取得の変遷

 国による土地の買い上げ実現が遠のいていく中、開拓跡地の保全対策に心をくだいていた藤谷豊町長(当時)は、全国に呼びかけて100平方メートルずつの土地を買い上げてもらう運動の構想を東京の知人達とひそかにあたためていました。ある日、朝日新聞朝刊の「天声人語」欄で紹介されていたイギリスのナショナル・トラスト運動に注目し、これを読んだ藤谷町長は知床流のナショナル・トラストとしての行動開始を決断しました。そして、1977年2月に「しれとこ100平方メートル運動」のスタートを発表したのです。

 「しれとこで夢を買いませんか」のキャッチフレーズで土地の買い取りや植樹費用等にあたる金額8000円を一口として寄付を募りました。この運動は自然保護に関心を持つ全国の人々から賛同を得られ、また運動を支援する報道にも後押しされて各地から寄附金が寄せられました。

 1982年には、運動開始5周年を記念して国内で初めてナショナル・トラストを考えるシンポジウムが知床で開催されました。このシンポジウムで「知床アピール」が採択され、その後の「ナショナル・トラストをすすめる全国の会」(現:公益社団法人日本ナショナル・トラスト協会)の発足につながる、日本の環境保護運動にとって歴史的意義をもつ会議となりました。知床の運動は、自治体がすすめるトラスト運動として、国際的にも注目をあつめ諸外国からの視察・訪問が相次ぎました。また、テレビ・新聞・雑誌など様々なメディアで取り上げられ、運動は全国に拡大していきました。

続きを読む 森林行政大転換~伐採中心から環境重視へ~

 運動の順調な展開の一方で、「危機的」な状況に直面したこともありました。それは、1987年の「知床国有林伐採問題」です。知床において、林野庁の伐採計画が明らかになり、原生林を復元しようとしている隣の森での木を切る計画に抗議が殺到したのです。斜里町に対しても「伐採を許すな!」との声が運動参加者をはじめ全国から寄せられました。残念ながら、1987年の春に一部伐採は強行されました。しかし、林野庁はその後の計画を断念し、1990年に伐採予定地を含めた知床の国有林を「森林生態系保護地域」として指定したのです。100平方メートル運動は日本の環境行政や自然保護活動の進展にも影響を与えたのです。

 1997年3月、運動参加者はのべ49,024人、金額では、5億2,000万円となり、「しれとこ100平方メートル運動」の目標金額が達成されました。そして、一部の保全対象地は残っていたものの、土地保全資金の目途がついたため、いったんここで区切りをつけ、運動は次なる目標へと進むことになったのです。また、これを機に保全した土地の譲渡不能の原則を定めた条例を制定し、将来に渡ってこの運動地を守り続けることを明確にしました。

 2010年11月には、100平方メートル運動地内に最後まで残されていた11.92haの開拓跡地を取得し、目標としていたすべての保全対象地の取得を完了することができました。

1997

100平方メートル運動の森・トラストへバトンタッチ

~森を育てる第2のステージへ~

森林再生の変遷

 運動を進める「夢の場」は 「しれとこ100平方メートル運動」によって確保されました。次の目標は植林した木を育て、森をつくり、そこに生息していた野生の生き物たちを再び迎え入れるという、自然の生態系の再生をめざす運動を進めていくことです。

 1997年6月からスタートしたこの新たな運動を「100平方メートル運動の森・トラスト」と名付けました。全国の人の厚意によって保全された夢の場の木々を大きく育て上げ、多様性に富んだ原生の森へと誘導していくこと、そして開拓以前の森に住んでいた生き物たちを再び迎え入れること、自然生態系の循環の再生までも新たに視野に入れた壮大な運動が始まりました。

 この原生の森をめざす遠大な計画を実現し、100年先を見すえた再生計画を立案するため、動植物の専門家や地元の有識者からなる森林再生専門委員会を設置しています。毎年活発な議論が繰り返され、森の憲法となる不変の原則、森や生態系の再生の将来構想、毎年の森づくり作業の結果や翌年の計画などを様々な視点から議論しています。

 森づくりの現場は、この専門委員会で最も時間をかけて議論された「不変の原則」に従い、100年先を目指す長期全体目標、20年毎に定める中期目標、運動地内を5区画に区分して5年で一巡する5年回帰作業計画の3段階の計画に従って作業を進めています。

土地取得の変遷

1977年(保全率25%)

「しれとこ100平方メートル運動」開始。同年、8軒の開拓農家から約119ヘクタールを取得しました。

1980年(保全率40%)

北海道内だけではなく全国各地の土地所有者とも交渉を重ね、少しずつ取得地が拡がっていきました。

1997年(保全率95%)

保全のための寄付金額が目標に達成。一部の保全対象地は残るものの、運動の目標を「森の再生」に発展させ、新たなスタートを切りました。

2010年(保全率100%)

最後の対象地を取得し、運動地の保全完了。運動で取得した土地と元々の町有地、計約861ヘクタールが夢の場として後世へと引き継がれていきます。

森林再生の変遷

1974年

2004年(30年後)

2009年(35年後)

2014年(40年後)

1974年の写真で白く見えるところが開拓跡地です。
時を経て、森を示す緑の部分がずいぶん増えました。

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